地味で地道なはてなブログ

ダイアリー「地味で地道な」から引っ越しました。

ロマンティシズム

「文系」と「理系」ふたたび。
ふと思った。
ハイクは「理系」であろうか。

一般の解釈とは意味づけが違ってきているかもしれないけれど、
「文系」か「理系」かといったら、
ハイクは「文系」なんじゃないかと思うし、
「ほぼ日」だってそうだし。

たとえばハイクにおけるユーザ同士の交流について、スターの数、コメント、レス、リプライなどで、
定量的に計測可能ではあるけれど、
それこそ「空気」のように、計測不可能な「皮膚感覚」がそこには存在していると思う。
「ほぼ日」も、オリンピックや高校野球の実況なんかみてるととくに、「共有しているなにものか」を感じる。

それは、一般には、本来計測不可能だと思われていることで、
でも、社会心理学言語学認知科学などのジャンルにおいて、計測され、仮説がたてられ、
理論だてて論じられ続けてきている内容。

有名な「吊橋をわたりきったところにいる異性を好きになる」というのは、社会心理学の実験だ。

計測は可能だけれども、
理論だてることも可能だけれども、

でも根底には、もっと泥くさいというか、
そこにひとが介在していることをなまなましく感じさせるなにものかが流れていて、
それがひとを動かしている。
情緒、情動、気持ち、皮膚感覚、
言葉はいくらでもあるだろう。
#あえて「クオリア」とはいわない。枠がかたすぎて使えない。
言語学だとこういうのがめちゃくちゃ細かいんだよなあ。

ムダといえばすべてがムダ。
でも、別になんの役にも立っていないような反射神経的なキーワードとエントリの羅列にみえても、
その向こうに確実に人がいることを感じられる。
それらの向こうに人がみえてくる。

しょーもないかもしれないけれど、
定量的でも本来論理的でもない気持ちのあらわれこそが、
流れをつくり、
システムをつくり、
さまざまなサービスを押し上げ、
ここまで進んできた。

ハイクの現在の流れは、まさにそうしたものの壮大な思考実験場のように思える。

戦車まつりだってそうだ。

それは「文系」というよりもむしろ「ロマンティシズム」に近いのかなとも思う。
wikipedia:ロマン主義

文系の研究者にも理系の研究者にも共通していえるのは、本来は、みなロマンティストだ。

「雪は空からの手紙である」(中谷宇吉郎)という言葉はとてもロマンティックで、
かつ学術的な面からもまさに言いえて妙である。

いまの「文系」は「理系離れ」によって、ロマンを半分くらい失いつつある。

いまの「理系」は、内在する情動的なものを情動的にあらわす訓練をあまりしないので、「理系」のもつロマンティシズムを表現できなくなりつつある。
楠田枝里子はこれがとても上手なのだけどねー。

お互いの交じり合っている部分からお互いがじりじりと下がっていっているから、
差が感じられ、遠く感じられ、お互いをうとんじてみたりなんかする。

けれど、ハイクをみていると、その差がだんだんと埋まっていくのがリアルタイムで感じられる。

失われた部分、
そこをつなぐ「気持ち」の部分、お互いへの興味、面白がる気持ち、情緒を大事にする思い、

本来の「ロマンティシズム」がたちあらわれてくるように思うのだ。

私は、そうした「ロマンティシズム」にみちたものを好んでいるのだなと、つくづくと思った。